三木城跡。

三木合戦をしのんで。

戦国史上最も凄惨な籠城戦のひとつと言われている。

三木城主別所長治公辞世の碑。

「今はただ     うらみもあらじ諸人の

いのちにかはる我身とおもへば」

(私の命で多くの人が助かるのなら、恨みなどない。)

三木城主別所長治は当初織田信長方として羽柴秀吉に協力することとなっていました。しかし、加古川の館で秀吉と別所氏が話し合いをしますが、意見があわず、信長と対立していた毛利氏に味方しました。

(成り上がりの秀吉の態度が悪く、名家の別所家が秀吉の下で毛利氏征伐の先鋒となることを嫌った。)

秀吉は、一度三木城を攻めましたが川に囲まれ小高い丘の上にあるため、うまく攻めることができませんでした。次に秀吉は、付城や土塁を築き、三木城への食料ルートを塞ぎます。三木城の中にいるものはみな飢え、数千人の人々が飢え死んだと伝わっています。

これが有名な「三木の干殺し」です。

「もはやここまで」と悟った別所長治は、残りの兵を助けることを条件に秀吉の降伏勧告を受諾し、天正8年1月17日、ついに長治は、妻子・一族とともに、自らの命を絶ちました。

(享年23。)

降伏勧告受諾を伝えると、秀吉は1月16日三木城へ酒と食料を運び込ませました。

(宴会が終わり、明け方、4人の子供(2歳、3歳、4歳、5歳)を正室の妻照子が刺し殺し、長治が照子を刺し殺したのちに長治・切腹。      照子享年22)

最後の晩餐。

 

別所長治・妻  波多野照子 辞世の句。

「もろともに消え果つるこそ嬉しけれ

おくれ先立つならいなる世を」

(夫婦であっても遅れて逝ったり、先立ったりするのが世の常なのに、こうしてあなたと一緒にあの世に旅立つことが嬉しい)

 

すごい。。

 

 

万寿庵、あまぐりジェラート。

 

 

 

おまけ。

豊臣秀吉の辞世の句。

「露と落ち露と消えにし我身かな

難波の事も夢のまた夢」

 

(はかなく生まれ消えていく。

栄華を極めた大阪城での

日々は夢の中で夢をみているようだった。)